金曜日, 10月 13, 2006

対話に学ぶ-「戦争の罪を問う」Karl Jaspers

どうも制定60年を過ぎた現憲法の「戦力放棄宣言」から「自虐史観」となり、中韓からの干渉を招いて国益を損ねているとの解釈から、教育基本法改正から憲法改正へと持って行きたいのが、自民党政権の方針と見えます。

歴史観修正方式には3修正主義があるのですが、国民的論議も殆んどされずコンセンサスを得てはいません。

原理主義的歴史修正:
先の大東亜戦争を欧米植民地主義に対抗する自衛戦争とし、日本の戦争犯罪を否定する。
国民主義的歴史修正:
大東亜戦争を不正な侵略戦争と認めるが、改めて国民的な歴史を形成しようとするネオ・ナショナリズム。
市場主義的歴史修正:
歴史論争の中に倫理的判断や責任意識を導入せず、歴史論争では多元的な物語があって良いとする。

昨今、一部の教育委員会では「原理主義的歴史修正」を施した“新しい歴史教科書をつくる会”編纂の教科書を採用して来ている様ですが、未だ大勢を占めるには至っていません。

そんな折、偶然読んだヤスパース「戦争の罪を問う」(平凡社ライブラリ)、既に60年を経過していますが、賛成意見より寧ろ反対意見を尊重しつつ対話から真の方向を学ぶ態度が大切と説いているのには、現在でも一読に値すると思われました。

ヤスパースは戦争の罪を4つに分け、それぞれの罪の種別に応じて、取るべき責任・償いの仕方も異なり、その事実をしっかりと受け止めることに人間の使命があるとしています。

政治的な罪:戦争を起こした戦争指導者たちの罪。
法律上の罪:人道平和に対する罪、戦争犯罪。
道徳的な罪:自分が戦争に参加したことによって相手を殺したりすることに対する罪。
形而上的罪:共有した戦時における不法と不正に対する罪で、その審判者は神のみ。

戦勝国の弾劾裁判ともされる「ニュルンベルク裁判」も、「敗戦国」の人間として転換の好機と捉えることで正当なものと判断し、それらの困難を乗り越えるものは、権力への渇望・迎合で無く「公正」な思考に於いて、 内面的な革新と生まれ変わりをもたらすのであり、そのことこそが「戦勝国」に、平和への「責任」を突きつけることになると説くのです。

ヤスパースは冒頭次のように述べて対話の重要性を指摘しています。

我々は語り合うと言うことを学びたいものである。つまり自分の意見を繰り返すばかりでなく、相手の考えている所も聞きたいものである。主張するだけでなく、理の在る所に耳を傾け、新たな洞察を得るだけの心構えを失いたくないものである。
反対者は、真理に到達する上で、賛成者より大事である。反対論のうちに共通点を捉えることは、互いに相容れない立場を早急に固定させ、そう言う立場との話し合いを見込みの無いものとして打ち切ってしまうより重要である。


戦争世代が生物学的にもどんどん亡くなって行き、戦後世代が今後どの様に動いていくのかも喫緊の課題で、被爆体験を含めて戦争体験を記憶として新しく作り上げていくのかと言う問題になりますが、現在提唱されつつある歴史修正主義は、その記憶を修正してしまうことが起こるような気もします。

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