木曜日, 1月 04, 2007

日中2000年の不理解

創刊朝日新書の一つで、横帯には「何故日本人の心は隣人に伝わらない-卓越の日本文化論」となっていますので、購入し読了しました。この手のタイトル本には、私を含めて島国の住人である日本人は弱い様です。

納得できる論点もありましたが、多様性国家の代表格である中国を儒教国家と単純に位置づけ、日本を感性主体の無宗教国家と位置づける拙速さが目立ち、結論的には性急で固定観念に満ちた漢民族から見た比較文化論だと思われます。

日中2000年の不理解-朝日新書(王敏 著)

小著は日本人・日本文化論の範疇に属するかも知れない。日本文化を感性文化と特色付けて輪郭だけを描くことに主眼をおいた。そして、この宿命的な感性文化のマイナスを克服して、日本は国際化を図らなければならない。
一向に未熟から抜け出られない愚考であることを正直に告白し、多くの方のご叱正とご教示を受けたいと願っている。


「日本は如何なる文化・宗教も受け入れるが、その過程で日本式に変容させてしまう」と喝破したことで知られていますのは、大正末期の芥川の小編「朱儒の言葉」ですが、それを念頭に散文的に敷衍させただけの様にみえて仕方がありません。

「キリスト教、イスラム教、儒教文化圏の人々から見て、日本文化は完全に異文化である」と指摘するに至っては、漢民族を普遍的とした中華思想を発露した傲慢さが感じられるとしか言い様がありません。

山本七平氏がイザヤ・ペンダサンのペンネームで発表した「日本人とユダヤ人」と比べて、視点の低さは大きいものと感じざるを得ないものがあります。

曰く「互いに交われば相互理解が出来ると単純に考える日本人が余りに多い。お互いに肩を触れ合い話す機会は益々多くなり、日常的なことなる。だが、それが相互理解に通ずる等と絶対に安直に考えてはならない。もしそうなら、ユダヤ人はもう二千年も、西欧人と肩を触れ合って生きているのである。」

要は乱暴な国家論の観点から文化を論じるのでなく、また排他的宗教的見地でもなく、個人の主体性が真価を問われる時代に来ていると言うのが妥当な見方だと思っています。

その点からみると、この新書は旧態依然としていて、飽き足らないものがあります。