水曜日, 8月 27, 2014

48年ぶりに「沈黙」を読む

五島滞在中にTVが見られなくなりましたので、義母の書棚から遠藤周作氏の「沈黙」を取り出して読んでいました。 この書籍は発売と同時に購入して感銘を受けましたので、五島出身の友人に読む様に勧めて貸し出したつもりでしたが返却されず我が家の書棚には無く、再読するのは48年ぶりのことでした。 遠藤周作氏は、グレアム・グリーン氏にも多大な影響を受けており、「沈黙」はグリーン氏の「権力と栄光」の切支丹迫害日本版との感触もありましたが、内外のキリスト教団体・信者などの原理主義者から批判にも晒された様です。 遠藤周作は、1966年長編小説「沈黙」を上梓し、同年谷崎潤一郎賞を受賞しましたが、この作品は、内外のキリスト教団体・信者などから批判されました。 ・基督はユダさえも救おうとされていたのである(4 ロドリゴの書簡) 批判:背教者であるユダをイエス・キリストが救おうとする訳がない。 ・主よ。こんな人生にも頑なに黙っていられる(8 ロドリゴの心中) ・神は何もせぬではないか(8 フェレイラのセリフ) 批判:神の声が聞こえなかったと言うことは、信仰がなかったと言うことだ。  ・ロドリゴが踏絵をしようとした瞬間、基督が「踏むがいい」と言った(8の最後) 批判:キリストが棄教して良いなどと言う訳がない。 「沈黙」が翻訳されて海外での評価が高まり、グレアム・グリーン氏が、この作品を絶賛したのは有名です。著者の「弱いイエス」は多くの共感を得たのでしょう。 神の子であるイエスでさえ、磔刑にされる直前に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と神の沈黙に対して疑問を投げかけたのですから、ロドリゴ神父が信徒を救うべく棄教すると言う人道的行為は許されることであって、一概に人間的弱さとは言えないと思うのです。 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とは - 磔にされたイエス・キリストが言った最後の言葉。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意(マタイによる福音書 第27章)。 旧約聖書「詩篇」第22篇からの引用とされるが、イエス受難書(福音書)は全体として、イエスをこの「苦難の義人」と並行関係に置こうとしている傾向が見て取れる。例えば、イエスを責める人々の行動を描いた部分にも、「詩篇」第22篇で「苦難の義人」を苛む人々の行動そのままの箇所が複数ある。 しかも十字架上のイエスはすぐその後で「大声を放って息絶えた」と記されている。このイエスの絶叫に祈りの言葉を与えたのが受難物語の記載者ではないかと考えられる。