月曜日, 8月 13, 2018

中島敦の名人伝を楽しむ

1950年代後半に、国語として漢文読み下し文を必修科目があった高校時代を過ごしましたので、中島敦の小説は漢文を活性化し駆使したものとして魅力を感じていました。
1942年に33年の短い一生の中で、珠玉の典雅な作品を残した中島敦は、持病の喘息が悪化して夭折してしまったのですが、その様な仕事をする作家は、歯ごたえの無い口語体文章が時代情勢から考えますと、もう出て来ることは無いのでしょう! 趙の時代、都邯鄲に、紀昌と言う男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。 当今、弓矢をとっては、名手・飛衛に及ぶ物があろうとは思われず、その門に入った。 5年を掛けた日々の基礎訓練を経て、写術の奥義を会得し、師をも凌ぐ力量に達してしまいます。 そこで、師飛衛は弟子紀昌に、「この道の蘊奥を極めたいと望むならば、霍山頂きの甘蠅老師がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆ど児戯に値する」と諭す。 気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊の様な柔和な目をした、しかも酷くよぼよぼの爺さんであった。 「一通り出来るようじゃな、だが、それは所詮、射之射と言うもの、好漢未だ不射之射を知らぬと見える」と弓不要の芸道の深淵を見せたのです。 9年の間、紀昌は甘蠅老師の許に留まった。山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変わったのに驚いた。以前の負けず嫌いな精悍な面魂は影をひそめ、木偶の如く愚者の如き容貌に変わっている。 旧師の飛衛は、「これでこそ天下の名人だ。我らの如き、足下にも及ぶものでない」と感嘆して叫んだ。 甘蠅老師の許を辞してから40年の後、紀昌は静かに、誠に煙の如く静かに世を去った。その40年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かったことから、弓矢を執っての活動などあろうはずも無い。 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の弦を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。 僅か、文庫本で10ページの小編ですが、古来伝統となっていた漢文脈を活性化しつつ、それを駆使出来た最後の例の一つなのかも知れません。