水曜日, 4月 28, 2010

高速増殖炉もんじゅ運転再開

私が「もんじゅ」を見学したのは、1995年秋の定期点検中でした。
1991年試運転を開始し、高速増殖炉は、本来は核燃料にならないウラン238をプルトニウムに変化させ、理論上は使った以上の燃料を生み出せることから、「夢の原子炉」とも呼ばれ、国も原子力政策の柱として開発を推進していた頃でした。
定期点検を終えて、運転再開しましたが、直後の1995年12月にナトリウム漏出火災事故が起きたために運転を休止したのでしたから驚きでした。

「もんじゅ」原子炉の冷却媒体に金属ナトリウムを使っているのは気にしていたのですが、旧来の水銀では熱伝達率が不足している事情から仕方の無い技術的理由があると納得していたのです。金属ナトリウムは常温では固体で、常に加熱して液体状態を保たなければなりませんし、また空気中では不安定で、水分を含む湿気で発火する弱点があるのでした。
適正な加熱状態を検知する熱電対管の後流にカルマン渦が発生し、その自励振動で熱電対管根元に亀裂が入り、其処から金属ナトリウムが漏れ出して火災を起こしたのが事故の原因だったのでした。
カルマン渦は自然現象でも日常的に見られ、風の強いに電線が振動して風切音が聞こえるもので、電線が切れる事故は無いのですから、設計余裕があれば事故を防げるのです。

高速増殖炉はフランス、ロシア、中国、インド等が開発を進めている「夢の原子炉」ですから、技術的ブレークスルーで難局を突破して頂きたいものです。

日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」について、内閣府の原子力安全委員会は、「運転再開は妥当」とした経済産業省原子力安全・保安院の評価結果を了承した。運転再開に関する国の手続きは終了し、原子力機構は地元の福井県と敦賀市に安全協定に基づく事前協議を申し入れ、運転再開は経済産業省原子力安全・保安院の立ち入り検査を経て、5月の大型連休明けになる見通し。
14年5ヶ月ぶりとなる「もんじゅ」の再開で、運転しながら核燃料を増やせる“夢の原子炉”の高速増殖炉開発が再び動き出すことになった。
もんじゅは、実験炉の次の段階の「原型炉」にあたる。


建設費は当初予算約5,900億円でしたが、事故後処置も含めて、掛かった総予算としては約1兆6000億円とされていて、仕様は下記の通りです。

原子炉型式:ナトリウム冷却高速中性子型増殖炉(高速増殖炉 ループ型)
電気出力:28万kW(280MW)
燃料の種類:MOX燃料
熱効率:39%
冷却材:金属ナトリウム
原子炉入口冷却材温度:397℃
原子炉出口冷却材温度:529℃
燃料集合体:198本
制御棒本数:19本
原子炉格納容器:鋼製格納容器

土曜日, 4月 24, 2010

ぼんやりの時間-辰濃和男(岩波新書)

筆者は1975~1988年に亘って、朝日新聞の「天声人語」を担当していた経歴を持っていることから、エスプリの利いた筆致で「近代化を見なおそう」と主張します。
ぼんやり


無駄な時間をいくら重ねても何の稼ぎにもならない、そんなことに時間を費やすのは愚の骨頂ではないかと、効率至上主義者はそう言うに違いない。
近代化・都市化・過密化・高速化・遅寝化等は、確かに街を賑やかにしたし、便利にしたが、一方では、森を奪い、闇を奪い、静謐を奪い、多様な生命の生存の拠点となる風土生命体を奪っている。
しかし、生を大事にする要諦は、今日と言う日の、今と言う時間を、ゆったりと、のどかに過ごし、ぼんやりを楽しみながら生きることだろう。
この本の登場する人々の多くは、その様にして生きたと思える人達、生きていると思える人達である。


批評家らしく、古今東西に亘って、人生を大切にした人達を例に取って、その主張を展開して行きます。
その自然との共生論にしても、強烈な自己主張でなく、疑いつつも、生き難い現代に対して少しく有用では無いかと、奥ゆかしいのも微笑ましく感じられました。

現在の雇用・労働の問題は深刻で、人々が失業、長時間労働、ストレスに苦しんでいる。
ぼんやりの時間を造ろうと呼び掛けても、就職先を探している人には届かない。たとえ届いたとしても耳を傾ける気持ちになるまい。
しかし、職を探している人々、長時間労働でくたくたになっている人々、心に鬱屈したものを持った人々にとって、ほんの少しの閑な時間を持つこと、或いは、ほんの少しぼんやり時間を持つことは有害であろうか。
ぼやーっとした時間が、そうしたストレスを軽減するにも役立つことを説明したい気持ちがあった。


私も「忙中閑あり」は良い生き方だと思いつつ、時間に追われた時は、「外に出て悠揚と空を見る」、「好きなクラシックをBGMにする」、「スケッチして油絵を描く」等を座右銘として、人生を過ごして来ています。
「直球勝負では無く、少しすねてゆっくりする」そんな生き方を主張する筆者には共鳴するものがありました。