火曜日, 10月 20, 2009

海潮音-岩波文庫

この文庫本は、周囲が褐色に変色しています。発行年月は1970年ですから無理も無いのでしょう!
海潮音

その中で、アホウドリを題材にした、ボードレールの「信天翁(をきのたいふ)」が眼に止まりました。

波路遙けき徒然の慰草(なみさみぐさ)と船人は、
八重の潮路の海鳥の沖の太夫を生擒りぬ、
楫(かじ)の枕のよき友よ心閑けき飛鳥かな、
沖津潮騒すべりゆく舷近くむれ集ふ。

たゞ甲板に据ゑぬればげにや笑止の極なる。
この青雲の帝王も、足どりふらゝ、拙くも、
あはれ、眞白き双翼は、たゞ徒らに廣ごりて、
今は身の仇、益も無き二つの櫂と曳きぬらむ。

天飛ぶ鳥も、降りては、やつれ醜き痩姿、
昨日の羽根のたかぶりも、今はた鈍に痛はしく、
煙管(きせる)に嘴(はし)をつゝかれて、心無には嘲けられ、
しどろの足を摸(ま)ねされて、飛行の空に憧るゝ。

雲居の君のこのさまよ、世の歌人に似たらずや、
暴風雨を笑ひ、風凌ぎ獵男(さつお)の弓をあざみしも、
地の下界にやらはれて、勢子の叫に煩へば、
太しき双の羽根さへも起居妨ぐ足まとひ。


七五調になっていて、日本語として響きが良いものですが、古い文語調でもあり、フリ仮名が添えてありませんと読み易くはありません。

「海潮音」は上田敏が雑誌帝国文学や明星上で発表したイタリア・イギリス・ドイツ・フランス・プロヴァンスといった翻訳した海外詩を1905年に 取り纏めたもので、新潮文庫や「上田敏全訳詩集」岩波文庫(山内義雄・矢野峰人編)、初版復刻版「海潮音」もある。

特に当時文壇の注目を集めていたフランス象徴主義に代表される詩人の作品を、象徴詩として紹介している点で有名であり、日本の象徴詩の隆盛の一端を担った。
カール・ブッセの作品「Pipa Passe」を翻訳した「山のあなた」や、ポール・ヴェルレーヌの「Chanson d'Automne」の翻訳「落葉」は国語の教科書で採用されている。

日曜日, 8月 16, 2009

佐々木毅の「政治の精神」-岩波新書1189

今を時めく21世紀臨調共同代表である佐々木毅氏、元東大総長の肩書もあり、総選挙間近い時期、時宜を得たものとも思えますが、別の見方をすれば、一寸時流に阿り過ぎた不満もあります。

著者は次の様に主張していますが、どんなものでしょうか?

マニフェスト(政権公約)をツールとした政党政治改革提案は、余りにも肥大化した密教部分を可能な限り押さえ込み、顕教型体制の正当性を復活することによって、政治的統合機能を回復させるという基本構想に沿ったものである。言い換えれば、戦後自民党が作り上げて来た仕組みはもはや維持できないし、維持すべきでないと言うことである。
政党間の競争と選択の内実を政権公約をツールとして質的に向上させることである。個々の問題を一つ一つ潰していくよりも、大きく全体を動かすことが肝要である。全体が動けば、一つ一つの厄介な問題も解決の目途が立つ。漫然となんとかなると言った感覚から脱出して、選挙に対する政党の態度や取り組みを冷静に判断する有権者の存在が、この質的向上には不可欠である。総選挙は「政党政治の精神」の最大のテストの場であり、政権公約はその中の不可欠な装置であると言うのが私の主張である。


著者は、政治制度並びに体制理解を是とし、その制度並びに体制がもたらす処の脆弱でない政治的統合に於ける政治が肯定されると考えるのである。そこに民主主義の理念よりして問題あるものが出来したとしても、それが政治的統合の強さもたらすものであるならば、積極的に肯定される意義を有すると考えてしまうのだ。

東大政治学の権威で総長であった人物が、その重責・権威の欠片も無く、あまりに時流に阿る曲学阿世の徒ではないかと思わざるを得ません。東大政治学も説得力を持たなくなりました。

金曜日, 5月 15, 2009

ビジネス・インサイト-岩波新書

超優良企業であった自動車企業、電機総合企業各社が大幅赤字に陥って、失業者が町に溢れて不況の只中にいて出口が見えません。
政府の経済活性化対策が不況克服の糸口になればと願うのですが、官僚主導の「靴の上から掻くような施策」ばかりで、どうも納得出来そうもありません。
デパート業界に至っては、前年割れの状態が何年も続き、再生の道筋は無いのでは思われる程で、消費者離れ対策が欠落しているのではと思うばかりです。
官民揃って何れも、昔のサクセスストーリに縋った洞察力不足(Lack of Insight)と言うか、経営陣の不徳の致す処では無いかと懸念するばかりです。

そんな折、「経営者を跳ばなければならない」をキャプションとした、インタラクティブ指向を説く下記の書籍が参考となりました。

ビジネス・インサイト-岩波新書1183(石井淳蔵 著)

与えられた状況下でやるべきことを仮説、それを現実で確かめる検証、そうして経営指針を立てて実行する。それを繰り返すことで、経営の質が改善させる実証型経営を駆動するのはマネジメントの力である。現代資本主義を成り立たせる力であり、大企業を支える最も重要な力であるが、これは「強み伝いの経営」で激動する世情では破綻する。
経営者は将来の事業についての洞察するインサイト、即ちビジネス・インサイトを保持し、跳ばなければ破綻は免れ得ない。
そうした見方は、これまでの経営学の論理実証主義に対して異なった立場であることを自覚して、学んだり研究したりする技法、特にケース教育とケース・リサーチについても検討したい。


そして、次の様なパラダイム・チェンジを提案するのですが、これは啓蒙型マーケティングに取りつかれた現経営陣の総入れ替えがなければその実現は叶いそうに無いと思われてなりません。

製品(Product)、価格(Price)、販売(Promotion)、流通(Place)の4P分析を駆使し、開発物や企画のコンセプトを、消費者に強く絶えず打ち込んで行く啓蒙型マーケティングは、なかなか通用しなくなっている。
これからの企業は「顧客との共同制作物を造る」と言う感覚が重要で、両者が相互依存し、影響し合う一つのシステムとして認識する姿勢が大事だと思われる。

市場も技術も資源そして企業自体も、戦術判断の拠り所にならない世界、謂わば底が抜けた世界では「共同の意思」こそが、唯一残された判断の拠り所になるのだろう。

金曜日, 4月 24, 2009

新約聖書の世界-ギリシャ・ローマの盛衰

ギリシャ・ローマの盛衰-講談社学術文庫(村川堅太郎他 著)

この文庫本は読み応えのあるものですが、その10章は「新約聖書の世界」となっていて、キリスト教の本質を理解するのに手助けとなる様な気がします。

ユダヤ人で無い者には、イエスと言う人が神の子キリストであると言うことは、とても「本当にそうだ(アーメン)」と言う訳にはいかないものである。しかしこの甚だ奇異な、しかも不確かに見える命題を、敢えて将に確かなものと前提する処に、一つの「生き方」が成り立つ。それは目に見えない絶対者への信頼と隣人との爽やかな交わりに生きようとするものである。
パウロは言う「十字架につけられたキリストはユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召されたもの自身にとっては、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、神の力、神の知恵であるキリストなのである」(コリント人への手紙第一)。


正典とされる「旧約聖書」と「新約聖書」の位置づけにおいても、分かりやすく解説されています。

4つの福音書とパウロの書簡とその他の文書が教典として結集される様になったのは、2世紀後半で、それらは相寄って、イエスによって確立した「新しい契約」を伝えるものであった。この新しい契約は、ユダヤ人に与えられた契約を「旧い契約」としてしまうものであったが、旧い契約に示された神の義が新しく示された神の愛の前提であり、その関係から両者を「聖書」とするのがキリスト教者の態度である。
新約聖書が現在の形で正典となったのは4世紀末であった。


1993年第1刷発行ですので、アマゾン書籍でもインターネット検索されないのですが、読んで頂きたい1冊だと思われました。

月曜日, 4月 20, 2009

地下鉄に乗って-浅田次郎

こんな描写があり、小中高校と子供時代に徘徊した地域でしたので、気をそそられました。

いま鍋横にいるんだけど、オデヲン座の前に。それがね-何処も変わってないんだよ。交叉点も、商店街も・・とっくに駐車場になってるって言うんだけど、オデヲン座がちゃんとあるんだ・・

中野オデヲン座では、昭和30年代前半にアメリカ映画「友情ある説得(Friendly Persuasion)」を見た記憶もあったからです。

浅田次郎の出世作とも言われる「地下鉄(メトロ)に乗って」は、大きな創業者企業の御曹司でありながら、父を憎み自力自立の道を選んだが、40代にして仕事に倦み、人生にくたびれ切った中年サラリーマンが体験するタイム・スリップの物語。

ストーリーテラーとしての面目躍如たる浅田次郎、危篤に陥った父の意思に導かれる様に、タイム・スリップを繰り返し、自殺した長兄が異父兄であったこと、会社同僚の愛人が異母妹であったことが分かってくるストーリー展開は流石だと言える。
そして軽蔑していた父の生き様を理解する様になり、地下鉄の響きを聴きながら「僕らはただ、父の様に生きるだけです。僕も弟も偉大な父の子供ですから」と自分の意志でこれからも生きて行こうと決意することで物語を終わる。

但し、異母妹の存在そのものを、その母親の転落事故での流産という形で、消去してしまう展開はストーリーテラーとしてやり過ぎと思われます。
「覆水盆に返らず」とも言われ、既成事実は消し去ることは出来ないと思われるからです。

火曜日, 4月 07, 2009

堕落するマスコミへの警鐘-ジャーナリズムの可能性

若者を中心に活字離れが加速し、出版不況のみならず、新聞離れも昂じて来ていますし、安易なテレビ視聴に替わって来て久しいものがあります。
テレビ局も社会の木鐸的役割を忘れて、CM受け入れの為、視聴率獲得に狂奔しエンタメ系低俗化が激しいものがあります。こうした状況にテレビ離れも増大、デジタルネット時代の到来となりました。

ジャーナリズムの可能性-岩波新書1170(原寿雄 著)

既成メディアの危機感を次の様に論じていて傾聴に値しますが、一寸時代錯誤的匂いがしないでもありません。

自由と民主主義の社会に、ジャーナリズムは不可欠である。
権力はどんなに民主的に選ばれても放置すれば確実に腐敗し民主主義に背く。自由民主主義社会は激しい倫理観が伴わなければ利己主義が横行する。弱肉強食のジャングルの法則に支配され、貧富を始めとする社会的格差を増幅する。結果として自由も民主主義も大きく歪められ、市民社会は崩壊してしまう。


既存マスコミの再生は、ホリエモンが目指して挫折してしまった「デジタルネットとの融合」を取り入れ、インタラクティブな議論発展以外にはないだろうと思うのですが、筆者は飽く迄ジャーナリスト再生は旧態依然たるジャーナリストにしか出来ないとするのです。

ジャーナリズムは権力を監視し、社会正義を実現することで、自由と民主主義を守り発展させ、最大多数の最大幸福を追求する。人権擁護は勿論のこと、自然環境の保護も、人間性を豊かにする文化の育成も、ジャーナリズムに期待される機能である。

その意図は分からないでもありませんが、あとがきで「新聞社や放送局が不動産で稼いでジャーナリズムを支えるのも一法では無いか」と論ずるに至っては、本末転倒のジャーナリスト再生、付いていけなくなりました。

日曜日, 2月 15, 2009

第2世代バイオ燃料-バイオディーゼル(BTL, BHD)

植物が原料の「バイオ燃料」は、燃焼時に排出されるCO2量が植物の成長する際に吸収したCO2量と等しいことから、「カーボン・ニュートラル」とみなされ、CO2排出はゼロと見なされる燃料なのですが、現状の「バイオ燃料」はトウモロコシや大豆等の食料を原材料とすることから、穀物相場高騰をもたらしたと言う批判も大きなものとなっています。

そこで、食用では無い植物や藻から作る「第2世代バイオ燃料」が注目されています。原料は非食物系の植物「カメリナ」「ジャトロファ」など3種類、これまでは種を搾って油を採りランプ油などに使われて来たことで、食物と競合しないのが利点とされ、しかも、乾燥してやせた土地や高地でも育ち、代替燃料として期待されている様です。

第1世代バイオエタノールとは違って、植物油そのものですから、粘度も高いことからガソリン代替とはならず、ディーゼル油仕様となりますが、化石油代替としては十分です。

フォルクスワーゲン社とダイムラー社は、第2世代バイオ燃料メーカー独コレーン社(CHOREN)に出資、BTL(Biomass To Liquid=バイオマス・トゥー・リキッド)燃料の普及を目的とする。
BTL燃料は植物から生成される液体燃料で、3社は既に2002年から、BTL研究開発を行っている。コレーン社はフライブルグにBTL工場を建設、1万5000トンのBTLを生産するが、これは1万5000台の車が1年間に使用するBTL量に相当する。又、同社は生産能力20万トンの工場を建設する計画も進めている。


日本でバイオディーゼルとされるのは、第一世代のFAME(Fatty Acid Methyl Ester:脂肪酸メチルエステル)、廃食油(天ぷら油など)を回収し、メタノールを加えてエステル化したもので、試験的にバス等の運行に利用されている。植物油のリサイクル利用と言う面では良いのだが、酸化安定性や重合安定性の問題が指摘され、不純物問題もある。

第二世代バイオディーゼルは、BHD:バイオ原料油の水素化処理油(Bio Hydrofined Diesel)と呼ばれ、植物油、廃食用油および獣脂を原料とし、石油精製プラントで水素化精製して作る。FAMEとは異なり軽油に近い組成となり、実用化ハードルは小さいが、原料調達の仕組みをどう作り上げるかが最大の課題となるようだ。

数年来、次世代エネルギーの主役として、水素や燃料電池が脚光を浴びていますが技術的ブレークスルーも経済的な価格面からもハードルも高く、最近では実用化でのハードルの低いバイオ燃料がニュースで取り上げられることになった様に思われます。

木曜日, 2月 12, 2009

白熱電球と置き換え可能な電球型LEDランプ

電球形蛍光灯が従来の白熱電球に比べ、寿命約6倍、電気代・CO2約1/4とされることから、東芝ネオボールZリアルに交換しましたのは1ヶ月前のことでした。価格は800円強と白熱電球の10倍でしたが、寿命6倍で経費的にほぼ同じだと思ったのです。

ところが、昨日テレビニュースで「LED電球が発売間近」と報じていましたので注目し、インターネットで調べてみました。

東芝ライテックは「E-CORE LED電球」シリーズの新製品「一般電球形4.3W」を発表した。発売は2009年3月18日で、価格は10,500円。
消費電力は4.3Wで、一般的な白熱電球の20-30W型に相当し、白熱電球とほぼ同じサイズを持つLED電球で、既存の白熱電球ソケットに差し替えて使用することが可能だ。

一般的な白熱電球では全方向に光が出るのに対し、同製品では上側にしか光が出ないため、ランプ全体としては20-30W相当の明るさだが、器具に取り付けて照明として使用する場合、下方向に向かう光の量は40W型の白熱電球に相当する。

また、一般電球形4.3Wでは、密閉形の照明器具への取りつけも可能となった。従来、発熱の問題から、電球型LEDは密閉形の器具へは使用できなかったのだが、大型の放熱フィンでこの問題をクリアしており、より広い範囲で使用することが可能になった。LED電球は、電球形蛍光灯が苦手とする、寒い場所や、繰り返しの点灯に強いというメリットもある。

一般電球形4.3Wの定格寿命は4万時間で、白熱電球の40倍となる。価格は白熱電球40個分よりも高い。しかし、4万時間分の電気代では、一般電球型4.3Wの方が2万7,000円程度節約できると言う。


電球型蛍光灯の明るさ比4倍・寿命比6倍であるのに比べ、LED式電球の方は明るさ比8~9倍・寿命比40倍と各段に改善されていることが分かりましたが、販売価格が100倍程度に高いのには驚くばかりで、普及するには時期尚早と判断しました。

又、私の技術的認識では「LED電球は発熱せずに高効率」と言うイメージがありましたので、「発熱問題を放熱フィンで解決」と報じているのも意外でした。
「確認せずに持っている先入観は、あやふやで危険なことなのだ」と、改めて自戒させて頂きました。

水曜日, 1月 28, 2009

家紋を探る-平凡社新書(森本景一 著)

近頃は冠婚葬祭も洋風になり、家紋入りの和服を着る機会も殆ど無いことから、自分の家紋も知らない人が激増しているだと思われます。
未だ墓石の多くには家紋が彫られている現状ですが、家より自分の想いを墓石に刻む例も増えて来ていますので、家紋の将来は風前の灯と言ったところでしょうか?

各家に代々伝わるとされる家紋は、平安時代後期に貴族が装飾的目的で使用し始め、鎌倉時代に武家が敵味方を判別する必要性から広まり、江戸時代に庶民が「家を表す」意味で使うに至って、数および絵柄が著しく増え、現在では2万5000種以上となるそうです。

家紋と言うものは、先祖から受け継がれることに価値があるものですから、出来るだけ探してみるのが良いのです。「家紋を探る」ことは家の伝統を探ることそのもの、此処に家紋を持つロマンが感じられます。
しかし手を尽くしても見つからない時は、新しく作ってしまうのも一つの手で、自分の好きな植物・動物や器具、星座や干支でも良く、自分に纏わるもので自由に作ってしまうことも出来るのです。

外国の紋章が動物をモチーフにしたものが多いのに対し、日本では植物紋が目を引きます。これは日本人が農耕民族だからで、野山に咲く花を愛し、雑草でさえも美しく紋章化してしまう日本人の美意識には脱帽です。


2時間程で気軽に読了してしまえるのは、著者が厳格な家紋専門家でなく、染色補正の職人として家紋を補正している内に、洗練されたデザインに引き込まれた結果の感動が、文章に籠められているからなのかも知れません。

木曜日, 1月 15, 2009

ヘーゲル法哲学批判序説-城塚登のマルクス解説

ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説-マルクス著 城塚登訳

この本はマルクスの「既存の一切に対する仮借の無い批判」として出版されたものですが、文章が仮借なく晦渋で読みにくいことから、読み続けるには相当の忍耐力が必要とされますが、あとがきに該当する 30ページを超える城塚登氏の訳者解説が秀逸です。

マルクスはユダヤ人であるが、「ユダヤ教の現世的基礎が私利私欲にあること、彼等の世俗的な神が貨幣であることを確認した上で、実際的欲望、利己主義が実は市民社会の原理である」とし、「貨幣はあらゆる神を貶め、それらを商品に変える。この疎遠な貨幣の存在が人間を支配し、人間はそれを崇拝するのである」と喝破するのである。

青年ヘーゲル学派(Jung Hegeliana)として活躍しつつ、やがてヘーゲル法哲学を批判することとなります。

ヘーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが、民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。宗教が人間を創るのでは無く、人間が宗教を創るのであったように、体制が国民を創るのでは無く、国民が体制を創るのである。

この若い時代に、既に官僚主義の弊害に論述しているのは注目に値します。

ヘーゲルは「官僚には、国家の意識および卓越した教養が存在し、合法性と知性とについて国家の基柱をなす」とするが、官僚制の普遍的精神は、内部の位階秩序によって外に向かっては閉鎖的な職業団体と言う性格を持ち保護されている。それ故、公開的な国家精神も国家心情も、官僚にとっては、その組織への裏切りの様に思われる。個々の官吏について言えば、国家目的は彼の私的目的、より高い地位への狂奔、立身出世に転化しているのである。

彼の思考した共産主義は、低開発国のロシアで実現、その後国際共産主義として中国等にも波及するのですが、全ての地で「国家主体とする官僚独占体制」で硬直化、腐敗が蔓延して瓦解することになるのです。
結局、「民主主義と公開的国家精神」を保持する現在の先進国群の方が、彼の意図した共産主義社会に近いのではと思えてなりません。