木曜日, 4月 19, 2012

古代インド思想史観からの仏教概説-仏教誕生(講談社学術文庫)

日本では大乗仏教しか流入しておらず、その大乗仏教が最大の論的とした「外道」一派の思想研究を専門とした著者の論述は非常に興味あるものとなっている。 釈尊が創始した初期仏教は、道徳論に近いもので、難解では無かったとするのである。 因果応報の法則に基づいて生類は輪廻しつつ生きていると言う考えの下では、生類が自ら積んだ善悪の所産である。 この教えを代表するものとしては七仏通戒偈で、漢訳では次の通りである。 諸悪莫作 諸の悪を作すことなかれ 衆善奉行 衆くの善を奉行せよ 自浄其意 自ら其の意を浄めよ 是諸仏教 是れ諸の仏の教えなり 成道を得た釈尊その人には善悪は全く存在しない。ただ、釈尊は、窮極の目標に達していない人に向かっては、善をなし悪を止める様に勧めたのである。 仏教を広めるべく、大衆化路線が執られ、釈尊を超人的な仏として崇拝、祈念することによって、その無限の慈悲のお蔭で救われると言う救済思想を生みだしたとし、空海が持ち込んだ密教思想も初期仏教からの変質が激しいとするのである。 しかし、絶対的救済神を奉ずるヒンドゥー教の刺激を受け、西暦紀元前後に興った大乗仏教は、民衆化の名の下に超越的な仏、無辺の慈悲による菩薩救済と言うテーマを打ち出し、禅定と言う名の瞑想も極めて神秘主義的となり、心作用が停止する三昧体験を窮極の目標たる解脱であるとした。 密教に至っては手段が目的とされ、悟りとは三昧体験だと言う瞑想と智慧との区別が全く出来ていない根本的な誤解に貫かれた解釈だと言わざるを得ない。 又、苦行修行による覚り開眼も、禅宗の祖とされる道元をも、釈尊への誤解ではないかと具申するのです。 釈尊は説法を始めてから死に至るまで、苦楽中道の生き方を貫いた。既に釈尊は窮極の目的を達成していたのであるから、この生き方が修行であったとは言えない。 我が国の道元禅師は、「釈尊は生涯に亘って修行生活を送った、覚り(証)は修行(修)の中のみに現れる」と解釈しているが、これは彼独自の美しい誤解である。 結局は、祈祷仏教と葬式仏教に陥ってしまった我が国の仏教は、変革する余地があるのではないかと提言するのです。 わが国で、智慧の生まれ無い処に僅かに生き残ったのが祈祷仏教と葬式仏教だけと言うのも、当然の成り行きだったのであろう。 アジアに仏教と名のつく宗教が数ある中で、日本仏教ほど生のニヒリズムに縁遠い仏教は無かったのである。 既存仏教に飽き足らず数多くの新興宗教が興りつつある現在、著者の提言は仏教界のプロテスタント運動なのか知れないと思われてなりません。

土曜日, 4月 14, 2012

ひきこもれ-吉本隆明(大和書房)

本書は対談集では無いのですが、命題を定めた会話を録音編集したものであり書き下ろし文に較べて冗漫性は否めません。 それでも、我慢して読み続けますと示唆に富んだ提言を発見することが出来ます。 「ひきこもり」は良くなく、ひきこもっている奴は社会に引っ張り出した方が良いと言う考え方に僕は到底賛同することが出来ません。 家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。周りからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない一纏まりの時間」を持つことが、どんな職業にも必ず必要なのだ。 世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身に着けないと一人前になれない種類のものなのだ。 ですから自信を持ってひきこもれと言うのですが、やはり個人では生き抜けないと一般社会的な問題分析を提示するのです。 ひきこもりの人の弱点は、職業を持って自立することが遅れがちなここで、「いい年をして定職に着かない」と非難されることもある。 其処からの展開は、意を決して仕事を見つけることを推奨するのですが、少なからず唐突感があります。 なるべく早く、引っ込み思案ならその自分に合った仕事を見つけた方が良いのだ。何故なら、どんな仕事でも経験の蓄積がものを言うからで、持続と言うことが大切で、ある日突然何者かに成れると言うことは無いと言うことを知っておいた方が良い。 他人に満足をもたらす仕事には熟練が必要であり、又、熟練する程賃金も良くなり、本人にも自分は何かを身につけたと言う実感があります。 「ひきこもり」問題には、吉本隆明も示唆に富んだ提言をしてくれましたが、昔も今も自助努力・他人の助け無しには解決を見つけにくいと言うことで、やはり正解を見つけにくいと言うことなのでしょう。

火曜日, 4月 10, 2012

吉本隆明も老いて凡愚に還る

老いの超え方-朝日文庫 本書は身体、社会、思想、死の4部構成となっており、全てが対談内容をそのまま文章化して纏めたものである。又各部には、著者が過去に述べた対話が、語録集として追加されることになっている。 しかし、どうしてこの様な手を抜いた書籍を発行したのか、対話形式の文章化は編集者に任せ、自分では怠惰に徹して推敲を重ねる労力を惜しんだとしか考えられない。 戦後の日本を代表する詩人で思想家とされる著者も、老いて怠惰となり愚者に還ったのだと考えると合点が行きますが、侘しさが募って仕方が無い。 結局、本書は各部の語録集とあとがきを読めば、良いのでは思われるのだ。 「“もう良いことなんか何もねえよ”と言う軌道に入ったら、希望を小刻みに持つことしかない。今日は孫と遊んで楽しかった、面白かったと言う状態に持っていける様にするしか防ぎようが無い」と「家族の中で死ぬ」ことを強調するだけとするのも何とも情けない。孤立死は避けて通れないことにつき、発信して欲しいものなのに・・ 死については、高村光太郎の「死ねば死に切り」と親鸞の「生死は不定である」が良いのではないかと結論付けるのだが、釈迦入滅に際して「後有(ごう)を受けず-即ち来世は無い」と喝破していることから考えると、考察不足では無いかとも疑いたくなってしまう。 本書のせめてもの救いは、書き下ろしの「あとがき」で、ゲーテの色彩論についての解釈で、ニュートンの科学的色彩論に較べて惨敗にも見えるのだが、ゲーテは四季折々の自然の豊富な色彩で「自然は際立っている」と感じる、その生態の謎が認知したい処だったのではなかろうかと述べていることにありそうだ。 詩人・思想家と言うならば、死ぬ直前まで意識のある限り、感銘を与える様な文章を発信し続けて貰いたいものだ。