日曜日, 12月 10, 2006

山雲涛声(さんうんとうせい)−東山魁夷

「山雲涛声」は奥飛騨路天生峠の霧「山雲」、能登西海岸輪島近くにうち寄せる波「涛声」を主題にした唐招提寺御影堂障壁画の画題で、完成は1975年6月です。

平凡な風景を生命自体の輝きを宿すものと見たのは、実は戦争の為に絵を描くことはおろか、生きる望みを失ったその瞬間でありました。私は、その時の心が最も純粋であったと後に気が付いたのです。

近頃平和呆けした日本では考えられない戦争の悲惨さを体験した画家の東山魁夷氏は唐招提寺の障壁画完成記念講演で述べています。
企業社会が発展し経済第一に何の疑念も持たず、生きる哲学も無く、欲望の赴くままに他人を騙して迄も金に執着する拝金主義の現状に対する警告でもある様に思われます。

日本の美を求めて−講談社学術文庫(東山魁夷 著)

「山雲涛声」の画題は、この障壁画の着手の初めに、鑑真和上の伝記を読み、唐招提寺の性格を研究しました時、自然に浮かんで来たものです。
人は意志する所に行為がある、と言われます。しかし、自己を無にする場合に初めて自分の外から発する真実の声が聞こえるのです。
私はずっと以前から、自分は生きているのでは無く、生かされていると感じると言う考えの下に、今日まで自分の道を辿って来た様な気がします。
私は宗教心が薄いものですから、私が何によって生かされ、何によって歩かされているかは分かりません。しかしそう感ずることによって、地上に存在する全てのものと自己が同じ運命に繋がる、同じ根を持つ同根の存在であると感じたのです。
山の雲は雲自身の意志によって流れるのでは無く、又、波も波自身の意志によってその音を立てているので無い。それは宇宙の根本的なものの動きにより、生命の根源からの導きによっているのでは無いでしょうか?


1976年12月発行の僅か100ページ程の小さな本ですが、職業著作家では無い率直な表現が新鮮に感じられました。
掘り下げ方がもう少しあったらと思いますが、何故絵を描くのかが良く理解出来る珍しい書籍の一つかも知れません。

新聞は生き残れるか−岩波新書

近頃の種々の情報がインターネット、テレビ等で氾濫していますが、私にはその場限りのどうでも良いようなニュースが大半の様な気がします。
インターネットは能動的で自分で選択して見ることが出来るのですが、受動的なテレビ放送では何の意味もない芸能タレントの馬鹿ふざけ番組が多く、視聴者に笑いや雑学を提供はするのですが、真面目に「考えさせてくれる」番組は減ってしまい希有となって来ている様です。

一昨日の日記に新聞とテレビの関連を書きましたので、気になって本屋に行って関連のありそうな2003年4月発刊の岩波新書を購入して読んでみました。著者は朝日新聞で政治部員、論説委員に長年携わっていた人ですが読み進む内に、信頼できる情報提供の雄としての位置を占めている新聞が購読者数を減らして存亡の危機を迎えていると知り驚いてしまいました。
どの家庭でも配達される新聞を購読すると思ったのですが、若い世代を中心に新聞離れが進み、無読者層が増えていると言うことです。

新聞は生き残れるか−岩波新書(中馬清福 著)

新聞普及率というのがある。日刊紙を月決めで購読している世帯が総世帯の内にどの位あるか、その比率のことだ。1984年この普及率は97%だった。日本が世界に冠たる新聞王国であったことは良く知られていたが、それにしても大変な数字である。
ところが、中央調査社のマスメディア・リサーチ(MMR)によると、1991年まで何とか97%で推移していた普及率は、1992年から低下し始め1999年には94.6%になった。
特に若者がひどく、例えば世帯主が24才以下の世帯の普及率は、1984年90.4%あったものが1999年には53.4%迄急落した。15年間で37ポイントの下落だが、内33ポイントは最新10年間で落ちているから、新聞離れに加速がついている。
世帯主が25才から29才の世帯も、普及率は毎年低下し1999年には25%が新聞をとっていない。
このまま進めば2004年には、30〜34才世帯が75%、35〜39才世帯が87%に落ちると推測される。
30才迄の関心事項の順位は、事件、音楽、流行、おしゃれ・ファッション、スポーツ、旅行・レジャー、環境、飲食店、芸能・タレント、就職・アルバイト、と続き、経済は12位、政治は16位だ。1位の事件を除き、日本の一般紙が積極的で無かったテーマである。新聞が若者に敬遠される筈だ。こうした若者の反乱に大いに悩まざるを得ない。

あとがきで次の様に結んでいます。

インターネット系にしろ、テレビ番組にしろ、確かに情報は乱舞していますが、知的な情報となると、専門的分野は兎も角、一般的には満足出来る段階とは言えません。印刷媒体か電子媒体か、それはどちらでも良い。人々に「考えさせる喜び」を与える媒体づくりを急がないと、この国の知的状況は厄介なことになるのではないでしょうか。


どうも記者・編集者を経験している割に文章に迫力が無く魅力に欠けている様に思われ読みにくいのです。即刻読ませる新聞記事とじっくり読ませる書籍文では、文章表現が違うのでしょうか?
結局は読者ニーズに合わせた紙面作りを提唱している様ですが、それにしても全てのニーズに応えられる筈も無く、混迷に困り果てている現状に愚痴を述べている本なのかと消化不良を感じる読後感が残りました。

こんなことを日記に書く私自身もトレンディーな流行に乗り遅れている愚痴を言っているだけかも知れないと自戒に念も出て来て仕方ありません。

火曜日, 12月 05, 2006

岩波新書の歴史-深刻な出版不況の中で

深刻な出版不況の中で、売れ筋の新書版の巨人「岩波新書」新赤版が1000冊を超えたらしい。
1970年代迄の青版では「教養・向学」と言う観点から出版されていたのですが、新赤版では「ハウ・ツー」ものが多くなり、極めて通俗的になって来たと思っています。

岩波新書の歴史-岩波新書(鹿野政直 著)

岩波新書は、「新書」と言う体裁の出版物では元祖の位置を占め、その歴史は半世紀を越えた。それを総括すると、次の様になる。

赤版  1938~1946年    101冊
青版  1949~1977年   1000冊
黄版  1977~1987年    396冊
新赤版 1988~2006年   1008冊

日本現代史を専攻すると言う立場から、岩波新書と言う窓を通して戦中・戦後の思想史を眺めようとしたことになるかも知れない。こうした目標に向けて序章に「新書の誕生」を置き、1~4章は時期ごとの特徴づけを試みて、この本を構成した。


著者は、出版不況・読書離れについては、編集長レポートを引用し「現代の読者は、テレビ・メディアを中心として形成された圧倒的なメディア支配の下で、書物と言うものを処遇している」、そして「大量で画一された情報の社会的強制によって、もはや“自分の人生の行き着く先が分かってしまっている”との運命論的現実認識が、若者に読書離れをもたらせている」と分析していますが、将に正論で、「近頃のテレビ・メディアは安易なお仕着せエンタメ放送が殆んどを占め、自分で考えない様に目隠し誘導している」と思わざるを得ません。

「出版不況」とインターネット検索すると、次の様な記事がありましたが、読者だけで無く出版者もビジネス本位となり、使命感を失っている様です。

書籍・雑誌の販売総額は今や2兆5千億円と低迷し、街中の本屋がどんどん少なくなり、経営基盤が脆弱な出版社の破産も多いらしい。
金額だけが尺度かもしれないが、「本が危ない」のは何も売上げだけではない。出版界では柳の下にドジョウが30匹までいると言われる。編集者はベストセラーの追従が企画だと思い,類似書を本屋の店頭にうずたかく積み上げている。読者はベストセラーを図書館に予約して競って借りるが,数年後ブックオフなどの新古書店の店頭に1冊百円で並んでいても誰も手にとろうともしない。雑誌は読者ではなく広告主のために創刊され,広告収入に頼った雑誌が返品率を押し上げている。 既刊本が売れなければ勢い新刊依存になる。昨年の新刊は7万点に近づき過去最高となった。専門書にも売れ筋があり,売り上げ重視で,安易に寿命の短い新刊を作った自分の反省もある。つまり出版不況は売れないことだけが問題なのではない。類似の企画,雑な編集,安易な新雑誌の創刊。どれもこれも出版界の精神的不況の結果である。貧すれば鈍する。だから本が危ないのである。