金曜日, 9月 29, 2017

玄冬の老齢時期に孤独を楽しむ-五木寛之「孤独のすすめ」

近頃は、社会保障制度予算の急拡大と共に、「搾取する」老人階級vs「搾り取られる」若者階級・勤労者階級という構図が問題となって来ました。
世代間の闘争とも見える切実な課題ですが、人間不信と自己嫌悪を克服することで、それを打開出来るのではないかと言うのが著者の主張です。

老人階級の生き方としては、「孤独を楽しむ」ことを、次の様に推奨します。
人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と、4つの季節が巡って行くのが自然の摂理です。玄冬なのに青春の様な生き方をしろと言っても、それは無理です。 老いにさし掛かるにつれ、体も思うように動かず、外出もままならず、訪ねて来る人もおらず、何もすることが無く無聊を託つ日々、世の中から取り残されてしまった様で、寂しいし不安だ。 孤独な生活の友となるのが、例えば読書で、外出が出来なくなっても、誰にも邪魔されず、古今東西の人と対話が出来る。視力が衰えて、本を読む力が失われても、回想する力は残っている。残された記憶を元に空想の翼を羽ばたかせたら、無辺の世界が広がって行く。 歳を重ねるごとに、孤独に強くなり、孤独の素晴らしさを知る。孤独を楽しむのは、人生後半の充実した生き方の一つだと思うのです。

現状、日本が抱える難問を逃避する傾向にあると懸念し、思考停止を警告しています。
日本人の様に、知識水準の高い国民がどうやって難問に立ち向かうのか、世界中の人々が固唾を飲んで見守っている問題があります。 一つは、使用済み核燃料の処理で、他の一つが、超高齢社会の行方で、どちらも戦後の日本で素晴らしい成果を上げながら、時間の経過と共に、その存在が社会の重荷になっている。 しかし、それらから目をそらし、とりあえず棚上げにして、「充実した毎日」を過ごせれば良いと現実から逃避し、美味なパンを求め、日々サーカスに興じることになります。

老人階級としての生き方を、日本のあるべき姿を模索しつつ、次の様に提唱するのです。
超高齢社会を生き抜くには、どうも「高齢者産業」も拡充で、「日本と言えば、高齢者をケアする製品やサービスで右に出るものが無い国」と言うブランドを確立したら、世界中が日本を見る目をガラリと変えるのでは無いでしょうか? そうした働きかけが、「嫌老社会から賢老社会」へのターニングポイントとなる時代に私たちは立っているのかも知れません。