火曜日, 12月 06, 2016

陳舜臣の日本人と中国人-同文同種と思い込む危険

日本と中国は、漢字文化、食文化、黄色人種等の共通性から、一般に「同文同種」「一衣帯水」との間柄と言った表現が用いられますが、現在は躍進した中国が反日と覇権主義を展開する中、日中関係はお互いへの感情が悪く、歴史上最悪の時代を迎えています。
著者の陳舜臣氏は日本生まれの中国人、喫緊の時事問題を避けて、永い歴史を振り返りつつ、日本人と中国人の違いを解説していて、今日の最悪な日中関係を改善する様な議論も多い様で、その洞察力には感心させられる処が多いと思われます。

著書の初版は1972年で、日中国交正常化がなって、中国ブームが起こっている時期であった。しかし、交流が深まるにつれてお互いの国への感情は悪化したが、初版執筆から30数年、訂正すべき箇所は殆ど無いと分かり、時事を避けたことは正解だと安堵している。(2005年度版)

例えば、文学や文学者に関しても、考え方の隔たりは大きく、違いを理解しつつ、付き合うことが必要だと言うのです。

日本人は、文学が拘わりを持つのは、「もののあわれ」であって、政治はその反対物として切り離された方が良い。
中国人にとっては、文学者が政治の渦に巻き込まれる、しごく当たり前のことで、弾圧を受けても、当然のことと受け止めているに違いない。
もし、近づくつもりがあるのなら、最低の条件として、相手がこちらと違うと言う点を理解すべきだと言うのである。


20~21世紀でとかく言われる経済的な資本主義・共産主義の違いが大きいと言う前に、お互いの永い国情から培われた本質的な政治体制の違いを認めるべきだと言うのです。

日本では機構或いはしきたりは上の権力2重構造で自己を制御し、中国では理念の2重性と皇帝の交代で蘇生を繰り返した。機構は「実」であり、理念が「名」であることは言うまでも無い。
このように長短相補う様な国家を、互いに隣国として存在させているのは、摂理の様な気がする。どちらが優れ、どちらが劣るかと言う問題ではない。一方が一方を倣って同化してしまっては、その摂理に対する冒涜であろう。