木曜日, 10月 08, 2015
パトスではなくロゴスが肝要-加藤周一と丸山眞男へのオマージュ
近頃、戦後レジームの脱却を叫ぶ政治制度を含めて、世の中全て自己の情熱(Pathos)を語ることが多く、論理(Logos)が欠如しているので、説明を求められると、その都度説明が違って説得力がありません。
安保法制を憲法違反とする立場の著者ですが、戦後日本を代表する知識人である加藤周一と丸山眞男へのオマージュを呈しつつ、論理(Logos)の大切さを説いていることで、一読に値する書籍と思われます。
アリストテレスは説得のあり方について、3つの側面から考察する。
logos(ロゴス、言論):理屈による説得
pathos(パトス、感情):聞き手の感情への訴えかけによる説得
ethos(エートス、人柄):話し手の人柄による説得
logos(言論)を中心に据え、最も多くの記述を費やし、pathos(感情)やethos(人柄)の側面についても、それなりの記述を費やしている。
近代社会学の父であるマックス・ヴェーバーによって提示された社会支配の三形態、「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」とも重なる。
加藤周一は、「民主主義」は「個人の尊厳と平等の原則の上に考えられる制度」と定義し、1955年の「雑種文化論」にて、「持続・伝統と言う「型」の思考の枠組みの中に、「段階」思考の実質的問題意識を埋め込んだと主張する。
「型」と「段階」思考は、松尾芭蕉の言う「不易」と「流行」に等しく、働きかけの余地を無くす「型」でなく、進歩を追う「段階」でもなく、伝統の中に「変化」を促すと言う緊張関係に自分を置き、知識階級の広い層が闘うだけの質量を蓄える必要があり、「9条の会」に対する肩入れは、それを目指していたのだ。
丸山眞男は、「個人は国家を媒介としのみ具体的鼎立定立を得つつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持する如き関係に立たねばならぬ」とし、「弁証法的な全体主義」を必須として、「弁証法的な」と言う形容詞の無い「全体主義、有機体国家、権威国家、単一政党国家、等族国家等、一様に均された(Gleichschaltung)国民大衆の上に成立する権威的な体制国家は全て否定する」のです。
丸山は自由の質を問題にして「規範創造的自由」を「人欲の解放」としての自由に対置し、加藤は知識人の孤立を繰り返さない為に「雑種文化」の可能性を模索したのだ。
憲法に対する立場は改憲、加憲、保持と様々で、著者の考え方に賛同は要しませんが、パトス的な意思表明だけではなく、納得できるロゴス的議論が為されなければ、丸山の警戒する全体主義勃興が懸念されることになります。将に「言葉ありき」が本質です。
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