金曜日, 4月 24, 2009

新約聖書の世界-ギリシャ・ローマの盛衰

ギリシャ・ローマの盛衰-講談社学術文庫(村川堅太郎他 著)

この文庫本は読み応えのあるものですが、その10章は「新約聖書の世界」となっていて、キリスト教の本質を理解するのに手助けとなる様な気がします。

ユダヤ人で無い者には、イエスと言う人が神の子キリストであると言うことは、とても「本当にそうだ(アーメン)」と言う訳にはいかないものである。しかしこの甚だ奇異な、しかも不確かに見える命題を、敢えて将に確かなものと前提する処に、一つの「生き方」が成り立つ。それは目に見えない絶対者への信頼と隣人との爽やかな交わりに生きようとするものである。
パウロは言う「十字架につけられたキリストはユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召されたもの自身にとっては、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、神の力、神の知恵であるキリストなのである」(コリント人への手紙第一)。


正典とされる「旧約聖書」と「新約聖書」の位置づけにおいても、分かりやすく解説されています。

4つの福音書とパウロの書簡とその他の文書が教典として結集される様になったのは、2世紀後半で、それらは相寄って、イエスによって確立した「新しい契約」を伝えるものであった。この新しい契約は、ユダヤ人に与えられた契約を「旧い契約」としてしまうものであったが、旧い契約に示された神の義が新しく示された神の愛の前提であり、その関係から両者を「聖書」とするのがキリスト教者の態度である。
新約聖書が現在の形で正典となったのは4世紀末であった。


1993年第1刷発行ですので、アマゾン書籍でもインターネット検索されないのですが、読んで頂きたい1冊だと思われました。

月曜日, 4月 20, 2009

地下鉄に乗って-浅田次郎

こんな描写があり、小中高校と子供時代に徘徊した地域でしたので、気をそそられました。

いま鍋横にいるんだけど、オデヲン座の前に。それがね-何処も変わってないんだよ。交叉点も、商店街も・・とっくに駐車場になってるって言うんだけど、オデヲン座がちゃんとあるんだ・・

中野オデヲン座では、昭和30年代前半にアメリカ映画「友情ある説得(Friendly Persuasion)」を見た記憶もあったからです。

浅田次郎の出世作とも言われる「地下鉄(メトロ)に乗って」は、大きな創業者企業の御曹司でありながら、父を憎み自力自立の道を選んだが、40代にして仕事に倦み、人生にくたびれ切った中年サラリーマンが体験するタイム・スリップの物語。

ストーリーテラーとしての面目躍如たる浅田次郎、危篤に陥った父の意思に導かれる様に、タイム・スリップを繰り返し、自殺した長兄が異父兄であったこと、会社同僚の愛人が異母妹であったことが分かってくるストーリー展開は流石だと言える。
そして軽蔑していた父の生き様を理解する様になり、地下鉄の響きを聴きながら「僕らはただ、父の様に生きるだけです。僕も弟も偉大な父の子供ですから」と自分の意志でこれからも生きて行こうと決意することで物語を終わる。

但し、異母妹の存在そのものを、その母親の転落事故での流産という形で、消去してしまう展開はストーリーテラーとしてやり過ぎと思われます。
「覆水盆に返らず」とも言われ、既成事実は消し去ることは出来ないと思われるからです。

火曜日, 4月 07, 2009

堕落するマスコミへの警鐘-ジャーナリズムの可能性

若者を中心に活字離れが加速し、出版不況のみならず、新聞離れも昂じて来ていますし、安易なテレビ視聴に替わって来て久しいものがあります。
テレビ局も社会の木鐸的役割を忘れて、CM受け入れの為、視聴率獲得に狂奔しエンタメ系低俗化が激しいものがあります。こうした状況にテレビ離れも増大、デジタルネット時代の到来となりました。

ジャーナリズムの可能性-岩波新書1170(原寿雄 著)

既成メディアの危機感を次の様に論じていて傾聴に値しますが、一寸時代錯誤的匂いがしないでもありません。

自由と民主主義の社会に、ジャーナリズムは不可欠である。
権力はどんなに民主的に選ばれても放置すれば確実に腐敗し民主主義に背く。自由民主主義社会は激しい倫理観が伴わなければ利己主義が横行する。弱肉強食のジャングルの法則に支配され、貧富を始めとする社会的格差を増幅する。結果として自由も民主主義も大きく歪められ、市民社会は崩壊してしまう。


既存マスコミの再生は、ホリエモンが目指して挫折してしまった「デジタルネットとの融合」を取り入れ、インタラクティブな議論発展以外にはないだろうと思うのですが、筆者は飽く迄ジャーナリスト再生は旧態依然たるジャーナリストにしか出来ないとするのです。

ジャーナリズムは権力を監視し、社会正義を実現することで、自由と民主主義を守り発展させ、最大多数の最大幸福を追求する。人権擁護は勿論のこと、自然環境の保護も、人間性を豊かにする文化の育成も、ジャーナリズムに期待される機能である。

その意図は分からないでもありませんが、あとがきで「新聞社や放送局が不動産で稼いでジャーナリズムを支えるのも一法では無いか」と論ずるに至っては、本末転倒のジャーナリスト再生、付いていけなくなりました。