2週間前の1周忌法要では和上が種々読経してくれたのですが、最後に「般若波羅蜜多」と唱えてくれたことしか覚えていませんし、「般若」は「悟りの智慧」・「波羅蜜多」は「完成」となるのですが、悟りを開いている訳でもなく、信心深くも無いので、普段通りに毎朝焼香しているに過ぎません。
「誤解された仏教」では次の様に述べられていますが、衆生には納得出来るものがあります。
「わが心の解脱は不動である。後有(ごう)を受けない」と釈尊は宣言した。
これは「私は輪廻を解脱した。これが最後の生存で、もう何にも何処にも生まれ変わらない」と言う意味で、これが仏教本来の考え方である。
しかし、愛妻の死が縁となり比叡山で回峰行に挑んだ阿闍利(あじゃり)は「心も肉体も空だから物心一如、一体何が残るのだろうか。私は“想いの深さ”が残ると敢えて言いたい。“想い”によって女房から色々なものを与えられた」と言うのである。
私と17才で知り合い27才の時に結婚したのは、1970年3月東大構内の赤門近くの学士会館別館でした。
それからは39年間の長きに亘って家族を愛し、静かに好きな読書をしつつ、時には義母と共に聴いたクラシック音楽を楽しむと言う平凡な人生を天命と受け止め、天寿を全うしたのです。
葬式仏教の法要・供養を一概に否定するものではありませんが、「後有(ごう)を受けず」で死後の世界は存在せず、「想いが残る」として家族・親戚・知人の心の中に刻まれて残ると言うのが、現在の私としましては、最も納得出来る様に思われます。