どうも金権主義と享楽主義が蔓延り、「ハウツーが横行するだけ」の如何ともし難い状況に陥っている様です。
「清貧」と言う言葉は死語と化して「金儲けと享楽のみが生き甲斐」となって久しく、強者は批判を封じ込めることに汲々とし、弱者を見つけると徹底的に批判して「その生き様」まで否定しようとするのですから、世の中は住みにくくなってしまい、とてもではありませんが一般大衆は堪りません。
政治家の政治資金偽装、実業家の偽装行為、マスコミの情報流用操作・インサイダー取引など頻発して「チャンスを生かす強者の論理」は留まることがありません。
「パンとサーカスを生き甲斐」とする哲学不在の時代が、そうした生き様を肯定してしまったのだと言うことでしょうか?
西田幾多郎-生きることと哲学 岩波新書(藤田正勝 著)
西田幾多郎は、「善の研究」で一世を風靡し、純粋経験を標榜した西田哲学を確立した哲人として知られている。
哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」でなくして深い人生の悲哀でなければならない。
「功なり名遂げた」人生を予想するだが、絶筆にあたって全く違った眼で自らの生涯を見ていたことが分かった。
私の論理は学界からは理解されず、一顧も与えられないと言っても良いのである。批評が無いではない。しかしそれは異なった立場から私の言う所を曲解しての批評に過ぎない。
西田は、さまざまな思想家から批判を受けたが、その都度、批判を正面から受け止め、自らの思想を発展させる原動力にして行った。批判を自らの思想の中に取り込み、それを糧として新たな発展を遂げていく力強さ、エネルギーが西田の思索の中にはあった。
西田は図らずも弁証法的生き様を貫いたのかも知れません。
ある命題(テーゼ=正)と、それを否定する命題(アンチテーゼ=反対命題)、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)として、サイクル化されているのである。
全てのものは矛盾を含んでおり、必然的に己と対立するものを生み出す。生み出すものと生み出されたものは互いに対立しあうが、その対立によって互いに結びつき、最後には二つがアウフヘーベン(aufheben)される。
日曜日, 1月 20, 2008
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